読書的な何か。

読書と読書にまつわるテクノロジー、雑記など。

読書に必要な13のこと ~『知的生産の技術』より

f:id:doksyo-tek:20200106210546j:plain

はじめに

日本を代表する民俗学者梅棹忠夫氏の名著『知的生産の技術』は、メモ法、カード利用法、原稿執筆法など、現代でも十分通用する仕事術であふれています。そして、この本の第6章では梅棹氏の「読書」に対する考えが記述されています。今回は、この「読書」の章に焦点を当ててみたいと思います。

概要

読書の章は、全部で13のトピックから成っています。読書のしかた、ノートの取り方、読書歴の整理のしかた、そして創造的な読書について。

さまざまな角度から読書が語られていますが、やはり本書のメイントピックである京大式情報カードの活用は、読書ととても親和性が高い。

現代では物理的なカードを使って整理することはあまり多くないのかもしれませんが、その概念、考えはリアルであろうとバーチャルであろうと、さほど変わりのないものなのだと思います。

読書に必要な13のこと

以下、各項で気になった文を抜き出し、簡単なメモをつけていくという形で列挙してみます。

(1)よむ技術

本というものはどのようにしてよめばいいかという技術的指導書になると、じつはあまりみあたらないのである。

当時は「本の本」というジャンルはあまりなかったのか? ちなみに具体的に挙げられていた本は次の二冊。

読書論 (岩波新書)

読書論 (岩波新書)

 
私の読書法 (岩波新書 青版 397)

私の読書法 (岩波新書 青版 397)

 

 (2)よむこととたべること

栄養学と食味評論がはっきりちがうように、読書論においても、技術論と鑑賞論とは、いちおう別のこととかんがえたほうがいいということなのである。

どういう材料を、どう料理して、どのようにたべれば、ほんとうに血になり、つぎの活動のエネルギー源になりうるかという技術論が、ここの問題なのである。

もうきっぱりと、鑑賞じゃない、これは読書技術だ! と言い切っちゃっている。ここで述べるは料理のおいしさ云々ではなくて、料理手法についてだ、ということ。

(3)本ずきのよみべた

どうも日本の教育は、やっぱり教科書中心・講義中心で、本をよませるという訓練方式がひどくかけているのではないだろうか。

読書法などというものは、本来たいへん個別的なものだから、各自で自分に適した流儀のものをつくりだすほかない、というかんがえかたもある。たしかに、けっきょくはそうだろうが、はじめからそういったのでは、技術の公開、共同開発の道をとざしてしまうことになり、結果的には秘伝主義になる。教育や訓練ということもありえなくなる。実際問題としては、おおくのすぐれた知識人の意見をきいてみると、意外に共通の技術や読書法式があるものだ。

読書を技術・技法という観点でみてみると、なんらかの共通項、共通方式みたいなものがありそうだと。長年読書をしているとなんとなく感じる経験則みたいなものか??

(4)「よんだ」と「みた」

本というものは、はじめからおわりまでよむものである。

著者のかんがえを正確に理解するための基本的条件の一つだからである。

内容の正確な理解のためには、とにかく全部よむことが必要である。

共通項のひとつかな? わかりやすい。最後まで読んだ本は「よんだ」。一部分だけ読んだ本は「みた」。著者の考えを正確に理解するには、全部読むのが基本!

(5)確認記録と読書カード

一冊の本をたしかに「よんだ」ことを、自分自身のために確認しておくという作業は、読書経験を定着させるために、たいへん有益であろう。

この有益なことを明確に記録するために、2つのことを提案している。①読了の印(いつ読み終えたか)は本そのものに記録し、②読んで感じた内容やメタデータ等は京大式カードに記録する、というもの。

(6)読書の履歴書

とにかく自分の読書歴のすべてが集約されて眼前にあるということは、自分自身の知的活動力に対してあまり幻想的な評価をしないために、ひじょうに役だつ。

年100冊というのは、ふつうの人間としては限度ではないだろうか。

カードがたまると、読んだ分だけ振り返りができる。これをやる人とやらない人では読書を血肉にできる速度がまったくもって違う気がする(当然、振り返るほうが早く吸収できる)。

(7)一気によむ

一気によんだほうが理解という点では確実さがたかい。すこしずつ、こつこつよんだ本は、しばしばまるで内容の理解ができていないことがある。

わたし自身は、二つの系列の読書を平行的にすすめることにしている。

ここでいう二つの系統とは、自分の専門分野の本と、関連の薄めの本。一気に読んだほうが理解が進むんだけど、読み切れないことが多いし、疲れるので、気分転換できる関連薄めの本も用意して、同時平行で読むスタイル。

(8)傍線をひく

(都度ノートを取ることについて)本ははじめからおわりまでよむということを眼目とすれば、こういうざせつしやすい方法はよくない。

かきぬいておきたいなどとおもう個所 ~略~ 心おぼえの傍線をひくほうがよい。

要するに、一番大事なのは一気通貫で読み進めること。ノートを取るとか、線を引くとか、読む行為の邪魔になっては元も子もない。

(9)読書ノート

わたしは、よみあげた本を、もう一どはじめから、全部めくってみることにしている。そして、さきに鉛筆で印をつけたところに目をとおすのである。そこで、なぜ最初によんだときにそこに印をつけたのかを、あらためてかんがえてみる。 ~略~ これはほんとうにノートしておく値うちがあるとおもわれるところだけを、ノートにとるのである。

カードの上欄には、その内容の一行サマリーを記入し、下部に、その本の著者、表題および該当ページを記入する。

まずは全部通して読んで、気になるところはサクッとマーキング。マーキングには徹底的に負荷をかけない。その上で、今度は吟味して選ばれた箇所だけ、京大式カードに転記していく。ここで選ばれた箇所は、その時のその人にとって意味のある個所というわけ。

(10)本は二どよむ

傍線にしたがってのノートつけは、よんだあとすぐではなくて、数日後、または数週間後におこなうのである。そのあいだ、本の現物は、目のまえにつんどかれる。

今日のように本をたくさんよまねばならぬ時代にあっては、一冊の本をなんどもよむなどということは、事実上できはしないのだ。しかし、なんどもよむほど理解がすすむのは事実である。そこで、実際的で効果のある方法として、わたしはこういう「読書二遍」法を実行しているのである。

京大式カードにエッセンスを絞り出すために、あえて間をあけて本質を見極める作業をしている感じ? 百遍は無理だとしても二回繰り返すだけで、しかも二回目はかなり凝縮されているのでこれだけでもとても定着しそう。

(11)本は二重によむ

(本に傍線を入れる二系統について)第一の系列は、「だいじなところ」であり、第二の系列は「おもしろいところ」である。

だいじなところは著者が主張したい部分、おもしろいところは読者の琴線に触れた部分。確かに。全然本の文脈と関係ないけど、気になってしまう箇所ってあるある。

(12)創造的読書

わたしの場合をいうと、じつはカードにメモやらかきぬきやらをするのは、全部第二の文脈においてなのである。

(著者が主張したい部分は既に本に書かれているのに対して)「わたしの文脈」のほうは、シリメツレツであって、しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさずキャッチして、しっかり定着しておかなければならない。

傍線をひくときに、なにがひらめいたのかを、きわめてかんたんに、欄外に記入しておく。

いわば本をダシにして、自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆくというやりかたである。

楽しむ読書(=消費的読書)に対して創造する読書(=生産的読書)のご提案。著者の主張を捉えつつ、自分のヒラメキも活かしてしまうなんて、素敵な読書ではないか!

(13)引用について

本は何かを「いうためによむ」のではなくて、むしろ「いわないためによむ」のである。つまり、どこかの本にかいてあることなら、それはすでに、だれかがかんがえておいてくれたことであるから、わたしがまたおなじことをくりかえす必要はない、というわけだ。

引用の多さは自分の創造物の少なさとの兼ね合いだという考え。最後に「自分が知らないだけで、どこかで書いてあるかもしれないこと」に対して身のすく思いであると。
かつて恩師が「あることを思いついたら、世界に三人は同じことを考えていると思え(だからとにかく急いで実験して世界で最初に思い付きを具体化せよ)ということを言っていたのを思い出した。世界は広いんだ。

まとめ

梅棹氏の読書に関する考え、読書に応用した京大式カードの使い方がよくわかる13のトピックだったと思います。

個人的に面白かったのは、創造的読書。読み物として消費する読書も相当面白いんだけど、自分のヒラメキや考えが読書を介して表出してくる読み方はかなりその本をしゃぶりつくしている感じがあって良い。こうやって得たヒラメキや考えはもちろん他でも活用可能。「本から知見を得る」ってこういうテクニックがあってこそ、より具体的に自分のモノになるのではないか、と思いました。

参考

 原著にあたりたくなった方は、こちらでどうぞ。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)