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読書的な何か。

読書と読書にまつわるテクノロジー、雑記など。

読書身体化試論

劇作家・寺山修司著作を編纂した『両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)』。様々なキーワードを切り口に、寺山修司の考え方を鮮やかに表現しています。その中に「書物」の項目もありました。非常に面白い視点だったので、ちょっとだけ、ご紹介します。

書物の項には、以下のような文が載っていました(他にも載っていましたが、doksyo-tekが気になった2文のみ抜粋しています)。

p197

 目と書物とは、二十センチ位の距離を保っているとコミュニケーションが成り立つが、それ以上近づくとぼやけてしまうし、それ以上遠ざかると、読めなくなってしまう。

 ロートレアモンの詩もマルクスの論文も、わずか二十センチの距離を保つことによって存在してきたものにすぎないのだ。そう思うと、いささかの虚しさが感じられる。

 世界中の読書人たちは、書物に向かって全速力で走ることも、書物に肌を密着させることも、書物と壁ごしに語り合うこともできない。

- 青蛾館 -

p198

 書物を嫌いになったのは、私が健康をとりもどすようになってからである。

 読むためには、肉体は沈黙を余儀なくされ、椅子に腰かけるかベッドに横たわるという「安静」人形のような状態が必要だということに気づくほど、私は恢復していたとも言えるだろう。「読書家というのは結局、安静状態の長い人という意味ととれないこともないな」と私は思った。読書とは、もっとも反行動的な実践なのだ。

- 東京零年 -

いずれも、書物を読むという行為は、身体的な動きを抑えるもので、それを解き放つ必要があるというメッセージのような気がします。

そういえば、彼の代表的な著作は『書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)』でした。まさに、書に捉われて、安静人形のようになってしまうのであれば、もっと体を動かせる、活動的なことがらに目を向けようということなのだと思います。

だとすれば、町へ出る=身体的な解放、を表現できる読書形態が提示できれば、それは新しい読書環境への足掛かりになるかもしれません。具体的には、、、どんなものなのか。町へ出て考えることにしようと思います。

両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)

両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム (新潮文庫)

 
書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)