読書的な何か。

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書評『乱読のセレンディピティ』

『思考の整理学』でおなじみ、外山滋比古さんの著作です。2014年出版で、当時外山さんは91歳。なかなか本を書ける年齢じゃないと思います。すごい。

本書の趣旨は、自分の読みなれた分野に閉じこもらず、様々なジャンルを「風のように」積極的に乱読することでセレンディピティ(意外なアイデアやヒント)を得ることができる、ということです。

ポイントは「風のように」。つまり、乱読にはある程度のスピードが必要だということ。外山さんは「修辞的残像」というテーマで博士論文を執筆されています。本書では修辞的残像の基本的な考え方を、以下の英文を例に説明されています。

Each of us have decided to discontinue our member ship.
われわれはめいめい会員をやめることにした。

文法的には「Each of us」は単数だから、haveはhasが、ourはhisにするのが正しい。しかしながら、前の語が持つ意味に引かれて、つまり残像が影響して破格が起こっている。この破格を含めた読み方を「修辞的残像」とする仮説を立てたのです。

例えば映画の場合、ひとつひとつのコマは断絶していますが、スピードのある運動を加える(映写する)ことで切れ目は消えてひとつらなりの意味のある動きになります。読書も同様に、単語を単語として捉えるのではなく、あるスピードを持って読むことで、残像効果を伴いひとつらなりの意味が出てくる、というのです。

「風のように」読むのは、簡単そうで難しい。どうせなら読んでいる内容を漏らさずに記憶したり、記録したりしたくなります。読書ノートを作ったり、下線を引く行為はまさにそれらを具現化したものです。しかし、外山さんはそんなものは読むだけで頭に残るものだと喝破しています。それは自然な働きを阻害するもので、実際以上に内容をわかりづらいものにしている可能性がある。それより、風のように軽やかに読み進めることで、自然に残像作用が働き、本質を捉えることができるのだと。

さらに「風のように」読む際に、意味がわからないなりにも、分野にこだらわずに好奇心に導かれて読むことで、多元的学術を構想する力が備わってくるとしています。つまり、様々なジャンルからこれまでは想像もしなかった気づきを得ることができ、それがまさにセレンディピティを得ることにつながるのだと言うのです。

外山さんは分野にこだわらずに風のように読むスタイルを、以下のように記しています。

専門の本をいくら読んでも、知識は増すけれども、心をゆさぶられるような感動はまずない、といってよい。それに対して、何気なく読んだ本につよく動かされるということもある。

どうも、人間は、少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより、軽い気持ちですることの方が、うまく行くことがある。なによりおもしろい。このおもしろさというのが、化学的反応である。真剣に立ち向かっていくのが、物理的であるのと対照的であるといってよい。

とにかく小さな分野の中にこもらないことだ。広く知の世界を、好奇心にみちびかれて放浪する。人に迷惑がかかるわけではないし、遠慮は無用。十年、二十年と乱読していればちょっとした教養を身につけることは、たいていの人に可能である。

確かに、社会に出て仕事をしていると、どんな仕事にも専門性が求められますが、常に専門領域を考えつつも、まったく異なるジャンルの事柄(本かもしれませんし、映画かもしれませんし、人との会話かもしれません)に触れることで、現状抱えている課題の解決法が化学反応的に得られることが往々にしてあるような気がします。

最後に、とても刺激的なご指摘を一つ。

わけもわからず、むやみに本ばかり読んでいると、心眼は疲れ、ものをはっきり見きわめることが難しくなる。読書メタボリック症候群型近視になってしまう。

ここで言う「むやみに本ばかり」の「本」は、特定分野の本を指すものだと思いますが、ここ数か月、これまで読んだことのなかった読書論や読書術のような本ばかり読んでいたので思わずドキッとしてしまいました。読書メタボリック症候群かぁ。。

読書を技術的に捉えることを考えたい本ブログですが、もしかすると、好奇心の赴くままに、風のように読書してみることで、とても斬新なアプローチが浮かんでくるのかもしれません。

外山 滋比古著「外山滋比古著作集〈1〉修辞的残像」(みすず書房)
4622048515

外山 滋比古著「思考の整理学 (ちくま文庫)」(筑摩書房)
4480020470

外山 滋比古著「乱読のセレンディピティ (扶桑社BOOKS)」(扶桑社)
B00LIGDRXC